HPFに寄せて
HPFは僕が写真家として生きていくと覚悟を決めた最初の場所でした。
第一回HPFの半月前まで入院していたことを覚えている。
都合悪く閉鎖病棟に入れられていた僕は隣のベッドに眠るおじさんのいびきに悩まされつつ入院初期は本を読んでいた。可愛い看護婦さんに読書家ですね、なんて言われて照れた。
太宰治「人間失格」安部公房「カンガルーノート」寺山修司「少女詩集」飯沢耕太郎「私写真論」金村修とタカザワケンジ「挑発する写真史」などなど。とにかく濃厚な本に囲まれた病室で僕は何かを残したい。漠然とした思いを抱いていた。
僕は本が好きだ。写真集もとても好きだし、所有欲を満たし、誰かの生き様というか、経験の一部のようなものが肌に感じられるのがとても好きだ。
入院中濃厚な本に顔をうずめた状態で何か残したいという漠然な思いは、徐々に大きくなりつつあった。
写真かな、なんて思ったが。
でも僕は写真の道をやめようと思っていた人間だった。
なぜ僕が写真の道というか作家の道を諦めていたのかについてかくと辞書三冊分の物語ができてしまうので多くは語らないが、僕は写真の暴力性も、特殊さも。そして伝わらなさも万能ではないことも。病気で中退した専門学校時代になんとなく知ってしまったからである。
でもやっぱり写真しかなかった。
なぜ写真を撮るのか。これは謎だが。
好きだから、とかではない何か。僕には残されてしまったのが写真だった。
もしも僕に机に齧り付いて小説とかが書ける忍耐があれば何か変わっていただろうし、もしも僕にピアノが弾けたら、もしも僕に絵が描けたら。考えることはたくさんある。撮ると少し呼吸が楽になる、とでも言おうか。自分の一部が写真として残る感覚というか。そういうのはある。
でも、自分が社会に対して何かを残してしまうことに罪悪感すら抱くことがある。
それでも、たくさんの写真を見て、寄り添ってくれた写真は確かにあった。
それが少しの光だった。
私はもう、日本とか世界とか。そういうところに名を残したいとは思わない。
不特定多数の知らない誰かまで救おうとか。そんなことも思わない。
ただ一つだけあるとしたら。自分の大切な人たちに、自分がまだ生きているよ、そして生きていた。と伝わるような写真がより良い写真であればいい。そう思っている。
そのために一番いい形が写真集とか。大事な人がきてくれるなら展示もいいだろう。そういったものに耐えられるかどうか。
それを教えてくれるのがHPFだった。
退院後すぐにレビューに向けて作品を作るべく。自転車に乗って川を撮りに行っていた。撮ることで、なんだかもう写真やめられないんだなと予感していた自分がいた。
HPFはさまざまなことを教えてくれた。そして第3回の昨年から運営としてホームページ作成などをお手伝いしているが、本当に今でも色々な経験をさせてもらっている。
HPFに向けて退院後すぐに自転車を走らせた青年の川は今も続いている。なぜ川を撮っているのか。それはまた別の話…。
鈴木瑛大
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